「温故知新」川上誌

墓地巡回

各家庭にはほとんど系図はつくられていない。

巻物として系図が残されているのは田崎家(伝之烝屋)他1,2軒かもしれない。いろいろ挿話を聞いても、これをどのようにまとめるか至難の業です。せめてその時代の年号や人物の存在を確認したいが、退去帳以外では墓地しかないと思いつきました。しかし、今の墓は先祖代々の墓碑として一つにまとめられていることが多いのです。

 

それでも個人名や戒名がわかる墓があります。10回以上は墓地を上から下へ、下から上へと巡回しました。ご承知のように薬師寺(真厳寺)は寛永17年11月(1640)、真岩厳達(元達)住職の留守中に火災が起き、弟子の林恕(九鬼本家出身)が薬師如来を池に投げ入れ焼失を免れましたが、建物と古記録はすべて失いました。寛永21年(正保元)薬師寺再建のお寺の歴史はさておき、現在のお堂は文化4年(全教和尚)の建築です。お墓巡りに戻ります。

古びた自然石を積んで囲った墓城が東向きの高台にあります。

お寺の歴代住職のお墓です。墓石は19世まであります。法名はありません。

18世は三諾純雄方丈です。大小の差はありますがすべて同型です。

宝珠型というのでしょうか?

その墓地を降りはじめると石段の両側に古びた大小様々の墓石が雑然と並びます。古小型の二基(多分村役人)、和助、仁右衛門、伝之烝屋、降り際に忠太夫、最後に武次右衛門とあります。

 

私はいつも念じます。

墓は崇めるよりも語り合う相手だと思うと親しみも涌きます。