九鬼家

九鬼家の争い

正平元年に九木浦へ映った藤原家が九鬼姓を名乗り、また天正11年に九木浦へ目代として入った有馬家も九鬼姓を名乗ったため、「九鬼家」の本家争いが生じました。浦の人々は九鬼宮内家・九鬼嶋之助と、はっきり区別していたため、本家争いとはおかしい話ですが、江戸期では系譜が大きな権威となっていましたから、争うことになったのでしょう。

ことの起こりは宝暦3年(1753)嶋之助家が七曜左巴の紋を使用したところ、宮内家はそれも自家の裏紋であるからと反対したため争いとなり、翌明和3年藩へ訴えが出されました。

藩は尾鷲組大庄屋の仲新之丞氏に調査するよう命じましたため、大庄屋としては組下の事件でもありなんとか円満に解決しようと努力し、その間にいろいろと妥協案も出されましたが、まとまりませんでした。

その後、この問題は治まりかけていたところ、寛政8年(1796年)7月14日真巌寺の施餓鬼(せがき)の節の席順のことで争いとなり、また文化6年(1809)の九木神社御遷宮のとき、弓支配のことで再び争いとなりました。

 

その時の尾鷲組大庄屋は土井徳蔵氏で、遷宮がすむまで大庄屋許に弓をあずかり事なきを得ましたが、弘化2年(1845)にも争いが再燃しています。

これに対して紀州藩は容易に裁決しませんでした。裁決する気がなかったのです。一方は佐倉中将藤原家であり、また一方は熊野別当榎本家から出た有馬家であり、共に当地方きっての由緒ある名家ですので、うっかり裁定を下して何れかを傷つけては大変だと考えいたためでしょう。